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執筆者の写真yoko kobayashi

「リハビリ」から「練習」へ

2022年秋、リハビリからほぼ解放され、やっと「練習」に入ることができている。

リハビリに専念していた10年間、「リハビリといっても、これは子供の頃の練習に通ずるものがある」とずっと思っていた。

ところがいざジストニア症状がでない中での本当の意味での練習を始めたら、リハビリとは全く別物だということに気づく。


「練習」をしながら、それがとても懐かしく感じるという、人生初の不思議な胸中でもある。



その「練習」初日の翌朝目を覚ますと、腕から背中にかけて筋肉がこわばっていたことに驚く。

ピアノを弾く上で(ピアノに限らず楽器全般そうだけれど)脱力は一番大事なことだ。

(緊張と弛緩のバランス)

リハビリから解放されるまでは随分と時間がかかったけれど、10年ぶりにやる「練習」というものを思い出すには、そんなに時間はかからないであろうと考える。


身体の使い方、筋肉の緊張と弛緩、特に弛緩に関しては、楽器を弾く上では当たり前にできているようで案外難しかったりする。

翌日のあのこわばりは、練習を基本から見直すきっかけとなった。


少しずつ思い出していることもある。

例えば、手のひらの使い方や、打鍵より離鍵のほうがより重要であり難しいことなど。

こうやって練習していると、ジャズを勉強し始めるもっと以前、小学生・中学生時代を思い出させる。そんな現状さえとても有難いことだと思う。


大人になって人前で演奏するようになって、調子が良い時は、重心が下へ下へと、まるで身体が床に吸い込まれるかのようなあの感覚も呼び覚ましたい。

と、そんな感覚もあったことを思い出したりしている。



話は18歳の頃に遡って、音大に入って、最初の実技Lessonでは、15ページ以上に渡って記されている大曲はたったの一小節しか弾かせてもらえなかった。

最初の一つの音で「違う!」と師の声が何度飛んできたことか。

深くズーーンと鳴るべき音が、トンとしか鳴っていないのである。

入学直後からの約3~4か月間、曲なんかみてもらえず、ひたすらロングトーンの練習だった。

ロングトーン?ピアノで?頭おかしくなるかと思った。

そのロングトーンでも「そうじゃない!」と厳しい声が飛んで来たら、ピアノを鳴らす、ピアノを弾くってどういうこと?と随分悩んだし焦りもあったと思う。


でも今そのことを思い出し、その経験は本当に貴重なものだったと強く思う。

師にはとても感謝している。その後ピアノを鳴らすことだけには多少の自信を持つことができた。

そして今、またそこに立ち戻ることはとても有効的なことだと気付かせてくれた。


もしかしたら、この時の試練が、今のロングトーンの多い曲作りにも影響しているのか?(笑)とふと思ったりする。


身体の使い方と脱力が肝心なのだけれど、そんな基本的なことも丁寧にチェックしながら練習を進めていかなければならない。

そして、ジャズを演るのにとても重要なことも、20代の頃に立ち返ってやり直していかなければ。

ねばならないというよりそれが今楽しいのだと思う。

タッチや呼吸も大切だ。

8分音符中心のフレーズも12keyで練習しながら、打鍵の位置や運指もkeyによって見直す必要があるだろう。

これは時間がかかる。でも今更やり直しか?!という気持ちは不思議とない。



そしてスーッとのびる音、歌う音を出すためには、やはり完全な脱力が必要であり、第一関節が重さを支えられるほどしっかりしている必要がある。 関節が弱いのに脱力してもなよなよした音しか出ない。 この第一関節の重要性、第一関節を意識することは、コロナ禍のある映像によって再び思い出したことでもある。 ピアノは力で弾くものではなく、腕の重さ、重力で弾く。これを支えるのは第一関節だ。 もちろんある程度指は動かさなくてはならない訳だから、手のひらの筋肉は使う。指を動かす訓練も当然必要になってくる。 そして手のひらの筋肉は腕の筋肉に繋がっているけれど、腕の内側の筋肉を使えるようになるのが理想的である。 ピアニストであれば、こんなこと意識しなくても自然に出来ているものだけれど、私の場合、そこまで立ち戻ってピアノに向かう必要があることも解っている。 ピアニストにとっては当たり前に出来ることかもしれないけれど、その当たり前のことどころじゃなくなるのがmusician's dystoniaであり、 それまで積み重ねてきたものを全て忘れ去るのがmusician's dystoniaだった。 (だった、と、ここでは敢えて過去形で言いたい。) 今「練習」が出来るようになって、明らかに20代の頃と違うのは、いかなる単調な練習内容であっても、自分の歌をその中に反映させたいと思うことだろうか。 とても時間がかかることだ、落ちてしまった体力から取り戻さなければならないかもしれない。 でも、そんなことがこの年になっても苦に感じることがない。 この先も演りたいことが山ほどあるからなんだと思う。 イメージが広がるのは精神的に健康な証拠だけれど、その目指す音楽に更に近づくには、そこに向かっていくには、それが出来るようになるには、 「ピアノという楽器を弾く」基本に立ち返ることが一番の近道なんだと、急がば回れだ。

何より、自分の演りたいことが出来る状況にあり、音楽が出来る現状であり、様々UNITで共に音を出してくれる音楽家がいてくれること、

時には誘ってくれる仲間がいること、何と幸せなことだろう。


その幸せを何倍にするにも、私自身が「ピアノ」を基本からやり直すことしかない、という結論に至るのに時間はかからなかった。


「練習」という単語の印象は、随分と変わった。楽しくあるべきものだとつくづく思う。



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